じゅんやあくのブログ

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常識にとらわれるな、ということを学んだ本。

特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/pdmagazine

 

なんかお題が出てたので書いてみよう(締切今日までだ!)。

 

僕の「青春の一冊」といえば、これだ。

「はじめての構造主義」(橋爪大三郎講談社、1988)

確か高3くらいの時に読んだ本で、フランスの社会人類学者・民族学者のレヴィ=ストロースさんを紹介した本です。

20世紀半ば頃、アフリカでは近親婚が当たり前で、それは欧米社会から見てアフリカは“文明が遅れているから”だという見方が主流だったからなのですが、それをストロースさんが現地で調査し、覆したという内容の本です(本当は記号論がどうたらとか、もっと難しい内容のこともたくさん書かれています)。

その近親婚のパターンを調べ、決まった組み合わせでしか婚姻できないという事実を発見し、「遅れているから近親婚がはびこっているのではなく、種を存続させるために生存戦略として“法則にのっとった”近親婚をしている」ということを社会に知らしめたのでした。

当時の「アフリカ=未開の地=文明が遅れている、野蛮だ=(欧米で禁忌となっている)近親婚が行なわれている」という“常識”をうのみにせず、なぜ近親婚が行われているのかということに対して、色眼鏡を通さずに観察・調査して、欧米で当たり前となっていた常識・価値観を覆したことに痛快さを感じました。この本を読んでから、世の中で“常識”と思われていることに対して、「それって本当に常識?」と疑ってかかるクセがついたと(自分では)思っています。

ちなみに、レヴィ=ストロースを欧文で表記すると「Lévi-Strauss」となり、あのジーンズメーカーとほぼ同じ綴りになります。当時、「ジーンズはやっぱりリーバイスの501、ボタンフライ(ズボンの“社会の窓”部分がジッパーではなくボタンになっているもの)だぜ」といきがっていた僕の心に、自分の好きなジーンズメーカーと同じ名前の学者の偉業がかっこよく思われ、より深く刺さったという次第です。

この考え方はその後の自分に大きく影響を与えたように感じます。

たとえば、大学の後期試験の時に、以下のような問題が出題されたことがありました。

「前期試験と同じ問題が出題されたらあなたはどうしますか? 以下の選択肢から選んで理由を述べよ。A.前期と同じ回答をする B.前期と一部同じ、一部違う回答をする C.前期と違う回答をする ※どの選択肢を選んだかではなく、選択肢を選んだ理由で採点します」

この時僕は、「D.前期の私の採点済みの答案をご参照ください」という選択肢を勝手に付け足してそれを丸で囲み、次のように回答しました。

「先生が前期と同じ問題を出題することの意図は、採点で手抜きをしたいか、前期でうまく答えられなかった人への救済措置だ。そして、私は前期試験がうまくいっているので、後者には当てはまらない。また、前期試験から後期試験の間に、この前期試験の問いに対する答えが変わっているということは、学問的に新たな発見や革命的な事態が起こっていない限りありえなく、それも起こっていない。ということは、Aを選択すればいいのかもしれないが、同じ問題に対する回答はすでに前期にしてあり、採点も済んでいる。よって、先生が楽をしたいという目的に合致するのはDである」

というようなことを長々と書きました。与えられた選択肢の中から選んで答えるという“常識”を否定し、結果、この科目はA判定をもらったのです。大学4年間で8個しかなかった貴重なA判定の科目の一つがこれだったのです。

ただ、いま考えると、これは不可を食らっても仕方がない回答だとは思いますが、この時は“理由で採点する”という問題文を見て、「これはなんか理屈をこねくり回せばいいんじゃないかな?」と思ってこのように回答した気がします。いずれにせよ、この本を読んでいたおかげで、“自分で選択肢を付け加える”という発想が生まれたんだと思います。

時代とともに常識も移り変わっていくと思うので、いつまでも従来の考え方にこだわらない柔軟に思考するクセを維持し続けたいですね。